その他/雑談

なぜ人を殺してはいけないのか

少し前に、僕は交通事故を起こしてしまいました。

幸い僕も相手も怪我は無かったのですが、それをきっかけに交通安全や法律等について最近考えています。

その延長として「なぜ人を殺してはいけないのか」ということについても考え、僕なりの結論にたどり着きましたのでここにまとめたいと思います。

※この記事は2019年(会社員時代)に「ながみえの旅」に投稿した記事を移動させたものです。

なぜ人を殺してはいけないのか。

その問いに、「そんなのは当たり前だ」なんて言う思考停止や宗教的な思想に依らずに答えを出そうとした結果、ちょっと危険な考え方になってしまったかもしれません。

この記事を書き終わった後も、何か違う解釈は無いかと考え続けています。

www.nagamie.com

なぜ人を殺してはいけないのか

古今東西、あらゆる人の集まりにおいて、「人を殺してはいけない」というルールがない集団はないと思います。

戦争等の特殊な状況については後述しますが、一般的な人の集まり(村、社会、国家 等)においては必ずあるルールでしょう。

ルールとは人が作るものであり、人の自由を奪うものです。

「人を殺す自由」なんて言うと怖い考えになってしまいますが、このルールはそれを奪います。

なぜそんなルールを作ったのか。それは「自分が殺されたくないから」です。

自分が殺されたくないから「人を殺してはいけない」というルールを作り、その中で生きる。そうすることで「人を殺す自由」を失う代わりに「人から殺される」心配もなくなるのです。

こう考えると、ルールとは「人が守るべきもの」というよりも「人を守るべきもの」であるということが分かります。

我々はこのルールに守られているから、安心して生きていけるのです。

刑罰の意味と目的

しかし、稀にこのルールを破る人がいます。

「人を殺してはいけない」社会の中で、そのルールに守られて生きていながら、誰かを殺してしまう人がいます。

こうなると、このルールは破綻します。

殺された人はルールに従い、人を殺したことなんてなかった。だから自分も殺されるはずはなかった。しかし実際は殺されてしまった。

おかしいじゃないか。

このルールは、守る意味がないじゃないか。

と、なってしまいます。

しかしそれでは困ります。自分が殺されないためには、このルールにはきちんと機能して貰わないといけません。

しかしルールそのものに人を強制する力はありません。

ではどうするか。

自分が殺されないためには、自分と関わる全ての人がルールを守ってくれないといけません。ルールを破る人がいなければ全てはうまくいきます。

つまり、ルールを守る人にとって、ルールを守らない人は  “邪魔”  なんです。

いてほしくないんです。

だから排除します。

現在の日本では、明確な意思を持って人を殺した場合、死刑です。

刑罰にはルールに従わせるための抑止力としての効果もありますが、「人を殺してはいけない」というルールに関してはそればかりではないと思います。

「人を殺してはいけない」を支持する大多数が、ルールを破る少数を排除しているにすぎないのです。

極論でしょうか。

死刑制度の意義

現在、ヨーロッパを中心に死刑の廃止を訴える運動が起こっていると聞きます。

例え罪人であっても一つの命。なんの権限があってそれを奪うのか、ということでしょう。詳しくは知りませんが、その考えの根底には宗教的な思想があるような気がします。

それを否定するつもりはありませんが、上記の僕の考えとは合いません。死刑はルールを守らない人を排除する手段です。

死刑制度を廃止した国では人を殺しても死刑にはなりませんが、だからと言って野放しにされる訳ではありません。

懲役何百年というように、事実上の終身刑となることが多いと聞いたことがあります。

死刑と終身刑。

当事者以外にとってはどちらも同じですね。ただ排除しているだけです。

被害者やその遺族のことを考えると難しいですが、その他の大多数にとっては、死刑はあってもなくても変わらないと思います。

死刑に抑止力としての効果が少しでもあるのならば、また話は変わってくるのでしょうが。

人を殺してもいい状況

世の中には、人を殺してもいい状況、許される場合というものが現実にありますので、それらについて考えてみたいと思います。

正当防衛

誰かが自分の命を奪おうとしているその瞬間、自分の命を守るためにやむを得ず相手の命を奪ってしまった場合。

そういう状況ならば、相手を殺してしまった人を糾弾する声は少ないと思います。

しかし、それはなぜなのか。

「人を殺してはいけない」というルールの中で、なぜ「正当防衛ならば人を殺してもいい」のか。

「仕方ないから」というのは思考停止です。何とか理屈をつけてみましょう。

「人を殺してはいけない」というルールの根底にあるのは「殺されたくない」という感情です。「殺されない」ための手段として「殺さない」のです。しかしこの状況下ではルールを守ると殺されてしまいます。

即ちルールを守る意味がなくなる、ルールそのものが破綻してしまいます。

それは殺されようとしているその人だけでなく、「人を殺してはいけない」を支持する全員にとって問題となります。

だからこのルールを破綻させないために、正当防衛ならば人を殺してもいい・・・即ち「正当防衛ならば、人を殺しても排除されない」ことに決めたのです。

矛盾しているようですが、「正当防衛ならば人を殺してもいい」は、「人を殺してはいけない」を維持するための仕組みの一つなのです。

戦争・紛争

「人を殺してはいけない」どころか、積極的に殺し合う状況があります。

戦争・紛争という状況について考えてみます。

選択の余地が無い人

他国等の、自分が属するものとは違う集団から攻められ、やむを得ず応戦する場合。

これは上記の正当防衛と同じでしょう。

ルールを守らない人(自分たちのルールの外に居る人)を排除するために戦います。

もちろん、排除できるかどうかはまた別の話ですが。

選択の余地が有る人

実際に銃で撃ち合うような状況では、やはり正当防衛と同様、殺さなければ殺されるので「殺してもいい」状況のように見えます。

が、実際は違います。

殺されたくなければ、そもそも戦場に行かなければいいのです。なぜそうしないのか。

国家というのは人の集まりです。もし国家が滅びれば多くの人が死ぬ場合が普通です。なので人は自分の命を守るために、国家を守る必要があります。

守るためには力がいるので、国家は戦力を保持し、かつ向上させていかなければいけません。

しかしここで、当然のことですが人の行動原理は「殺されたくない」だけではありません。

様々な利権や考え方の違い等で他の集団が  “邪魔”  になる場合があります。

なので  “戦力”  を用いて、邪魔なものを排除します。「人を殺してはいけない」理由と、根本的には同じです。

そうして戦争・紛争が起こります。

ここで話を個人に戻しますと、殺されたくなければその戦争に参加しなければいい、つまり兵隊にならなければいいのです。

なぜなるのか。

この問いに対する回答は非常に難しいですが、私がたどり着いた答えはやはり、「自分が殺されたくないから」です。

自分が殺されないために、属する国家は強くあらねばならない。

国家が強くあるためには、たくさんの兵隊が必要となる。

国家は高い報酬や良いイメージ、名誉などを駆使して兵隊を集める。

そうして集められた個人が何を思っているかは千差万別でしょうが、集められた理由は自分を含めた大勢の「殺されたくない」という感情だと思うのです。

・・・と、書いてはみましたが、正直少しモヤモヤしています。

何か別の解釈にたどり着けた際には、追記したいと思います。

一方的な殺戮

ベトナム戦争時に起きた、ソンミ村虐殺事件というものをご存知でしょうか。

1968年3月に米軍兵士たちが非武装のベトナム人の村を襲撃し、無抵抗の村民504人を虐殺した事件です。

ソンミ村虐殺事件 – Wikipedia

酷い話ですが、この時のこの米兵たちは、なぜそのようなことをしたのでしょうか。

「人を殺してはいけない」理由は「自分が殺されたくない」からですが、このときの米兵の状況はどうだったのでしょうか。

相手は武器すら持っていない一般人です。抵抗してきたとしても、米兵にとって全く脅威ではありませんでした。

つまり、この時の米兵は「人を殺しても自分が殺される心配はない」状態だったのです。

だから何の心配もなく、ただ自分がやりたいことをやっただけの話です。

現に、この米兵たちは罰を受けこそしたものの、排除された人は一人もいません。

圧倒的に強い立場に居る人は、人を殺してもいい状況になり得るのです。

これが現実であり、現状の「人を殺してはいけない」の限界です。

無論、それが正しいとは思いません。しかしならばどうすればいいのか。

地球上の全ての人に対して「人を殺してはいけない」を適用するには、地球上のどの集団よりも圧倒的に強い集団を作り、その集団が「人を殺してはいけない」を強制するしかないと思います。

例えば1920年に設立された国際連盟。結果はともかく、世界平和を目的として設立された機関です。

その思想を引き継いだ国際連合も、上記のような酷い事件を防げていません。

戦争等の観点から「人を殺してはいけない」を徹底するには、人類はまだ未熟なのです。

いづれ国際連合がより進化するか、もしくは別の強い期間が誕生するか。

それを待たなければいけません。

まとめ

いかがでしょうか。

僕なりに「人を殺してはいけない理由」について考えてみましたが、少し怖い考えになってしまったと思います。

極端な話、この考え方では「自分が殺されてもいいのなら、人を殺してもいい」ということになってしまいます。

これを何とか否定できないかと考えたのですが、思いつきませんでした。

こんな自分でも納得できていない記事を公開していいものかと悩みましたが、現時点の私の考えということで、公開することにしました。

この先、この議題についての考えの変化や新たな解釈が生まれた際には、また追記したいと思います。

 

なぜ人を殺してはいけないのか。

皆さんは、どのように考えますか?